【第13回】「障害の社会モデル」の話〜発達障害の"障害物”は、あなただけの問題ではありません
- 楽々かあさん(大場美鈴)🇯🇵
- 4 日前
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更新日:2 日前
■発達障害のある人が「うまくいかない」と感じた時に、知って欲しい言葉
「10代のための凸凹学」連載13回目の今回は……
「どうして自分はうまくいかないんだろう」
「なんで自分は発達障害なんかなの……」
「人類やるのが根本的に向いてない!」

……なんて、生きづらさを感じて悩んでいる人に、ぜひ、知っておいて欲しい言葉があります。
(※ちなみに、「人類向いてない」は、うちの長男の口癖です😅)
それが、「障害の社会モデル」です。
🤔「障害の社会モデル」って、どういうこと?
これまでの記事でも繰り返し「壁(=障害)はその人と環境との「間」にあるのであって、その人の中にだけ存在するのではない」とお伝えしてきました。
これが、「障害の社会モデル」の考え方です。近年では、専門のお医者さんの発達障害の診断基準にも、この考え方が反映されているんですよ。
この「障害の社会モデル」と対になる言葉が「障害の医学モデル」または「障害の個人モデル」です。
👉「医学モデル(個人モデル)」での、障害はどこにあった?
従来の考え方では、「障害」は、本人の中にある困難さであり、個人の能力や脳の働きに問題があると思われてきました。
だから、発達障害のある人が困難さを解決するためには、「医療」や「治療」、「トレーニング」「療育(発達支援)」などが必要とされ、お薬を飲んで症状をコントロールすることなどが中心でした。
もちろん、これらの医学的な方法で改善・緩和することも、ある程度必要かつ、有効な方法だと私も思います。
特に、本人・家族の日常生活に大きな負担がかかったり、学業や仕事などに大きな支障が出ている場合などは、一時的にでもお薬に助けてもらう選択もあると思います。
療育・発達支援や、各種のトレーニングなどで、苦手なことができるようになる場合も、たくさんあります(うちでも色々と試行錯誤してきました✌️)。
ただ、発達障害は、その人の生まれつきの脳の特徴や発達の偏りによるものなので、基本的に「治す」「克服する」性質のものではありません。
現時点では、お医者さんのお薬も、一時的に症状を和らげることはできても、その人の個性の特徴を根本から治すものではありません。また、その必要もありません。
なぜなら、発達障害はその人の個性の一部でもあるからです。
(そもそも、どんな人のどんな個性も「治す」性質のものではないと、私は思っています)
🤔じゃあ「社会モデル」での、障害はどこにある?
このように、”障害”は、その人の「中」にあるのだから治療が必要、と考えられてきたのが、「障害の医学モデル(個人モデル)」です。
一方で、"障害"は、その人と社会との「間」にある、と考えるのが「障害の社会モデル」です。
つまり、発達障害のある人の ”障害”は、社会の仕組みや環境側の課題や、周りの人たちの差別・偏見・無理解などの"心の壁"……などとの間にある、と考えるのです。
「社会の仕組みや環境側の問題」とは、一体、どういうことかというと……
👉多数派・標準型に合わせた社会のデザイン
【第3回】でも触れましたが、私たちのいる社会の仕組みの多くは「多数派」や、「標準型」「定型発達」、あるいは「普通の人」を想定して、予めデザインされていることが多いのです。
たとえば、小学校の学習カリキュラムは、学年ごとに学習すべき内容が決められていますよね。
国語は何年生でどの漢字をいくつ習うとか、算数は小2で九九、小6でXが登場…とか。
これは標準的な発達の子を想定して、大人数の教室で効率よく学習を進めるために、時間をかけて十分吟味されたカリキュラムなのでしょう。
でも、そこに合わない、個性的な発達をする子や、多数派とは違う学び方が得意な子などにとっては、学びづらい、分かりにくい、効率が悪いものになっているかもしれません。
左利きの人が、駅の改札や文房具選びで不便さを感じるのと同じように……(うちの長女も左利きです😅)
ベビーカー連れのパパママが、大回りしないと通れない道や、乗りづらい交通機関があるのと同じように……
スマホがない人が、お店のキャッシュレス決済やQRコード注文で、困ってしまうのと同じように……
多数派や標準型に合わせた仕組みの中で、人と違う個性のある人が、不便さや不自由さ、生きづらさを感じているとしたら……”障害物”は、そこにあるのです。
ただし、「全部、社会が悪い!」なんてことはありません(例外もあるでしょうが…)。
社会の側にも、より多くの人が、効率よくコスパよく生きるためには、いろいろと、都合や事情がありますからね。
もちろん、「全部、あなたが悪い」なんてこともありません。
それに、その人の生まれつきの個性には、なんの罪も責任もありません(長所も短所も普通の部分も、大切なあなたの一部ですからね☺️)。
☝️発達障害のある人の生きづらさは、個性と環境の「間」にある
つまり、発達障害のある人の、「うまくいかない」「生きづらい」感じは、個性と環境との「関係性」「相性」「マッチング」次第なのです。
そして、それが理由で、その人がその社会に適応できない場合は、社会との「壁」や「段差」や「溝」などの "障害物" として、その人らしく生きるための妨げになってしまいます。
また、【第11回】でもお伝えしたとおり、単に「凸凹差の大きな個性」があるだけでなく、その人が「個性の違いが主な原因で、今の環境に適応できていない」のなら、「発達障害」と診断される傾向が増えました。
というのも、近年では「障害の社会モデル」の考え方に基づいて、発達障害を含め、障害のある人に生じる不具合は、個人の問題だけにするのではなく、社会が作り出している課題でもあるとの認識が広まっているからです。
ですから、環境側はそれに対する責任を負うことが法的義務ともなっています。
これは日本の法律でも、国連の条約でも、ちゃんと約束されていることなんですよ(*1)
そして、この「個人」と「環境」との間にある「壁」を取り払うには、50m級の巨人の出現を待つ以外にも、様々な方法があります。そのうちの一つが、「合理的配慮」です。
いずれ、詳しくお伝えしたいと思っていますが……。
今のところは「"障害物"がある場所は、個人の中ではなくて、個人と環境の”間”にある」ということだけは、発達障害のある人も、ない人も、覚えておいてくれたら嬉しいです。
(*1)「障害の社会モデル」に基づいた法律・条約:
内閣府「第1章 改正障害者差別解消法の施行」第1節 改正障害者差別解消法等の概要「障害の「社会モデル」とは」https://www8.cao.go.jp/shougai/whitepaper/r06hakusho/zenbun/h2_01_01_02.html
外務省配布PDF「障害者権利条約」P.7- 障害者の権利に関する条約「条約における障害のとらえ方」
「10代のための凸凹学」連載記事:


