夏休みも後半戦。お元気にされていますか? ・・・私はヘトヘト、うちはグダグダです。笑
先日の登校日、長男は前の日から「行きたくない」と言い続け、当日は出発時刻、「学校の全てが怖い」と言って泣き出し、玄関に座り込んでしまいました。
結局遅れて保健室登校。行けただけでもほめましたが、少々新学期が心配です。
一年生の頃に比べると、学校も大分慣れ、多くはないけれど友だちも出来、毎朝泣いたり渋ったり、という状態は改善していて、三年生の一学期はサボリ休みはありませんでした。
学習面でうまくいかないことが大きいけれど、それ以外はそこそこ適応できている、という印象で、先生や周りのお子さん達も割と温かく見守ってくれている感じがしています。
でも、夏休みの間、大好きなゲームはやり放題だし、私もできるだけ好きにさせているので、、、やっぱり学校との環境の段差が激しいですよね。
休みの間に、友だちや給食といった、本人が楽しみにしている学校のイメージはすっかり消えてしまって、授業についていけないこと、注意や叱責、遠い登下校、苦手な体育や運動会…など、不安に思っているネガティブなイメージが膨らんでしまっているように思います。
残りの休みは、近所のお友達と遊んだり、負担にならない程度に学校の(楽しい面の)話題を出したりして、良いイメージが戻るように心がけたいと思っています。
さて、タイトルの「不登校の思い出」。
実は、私一ヶ月程度ですが、不登校の経験があります。それも長男と同じ小学三年生の頃。
私は真面目でおとなしく、引っ込み思案で、内向的な少女でした。
感覚が敏感で疲れやすく、小3くらいまでは、学校では授業中の発言以外は殆ど話さず、選択性かんもく(場面緘黙)と呼ばれる状態だったと思います。お絵かきが好きで、いつも絵を描いていました。
当時は自分も周囲も理解できていてなかったけれど、発達障害グレーゾーンの範疇にあったのだと思います。
当時の私は、友だちと呼べる子はいなくて、友だちの作り方すら分からず、母が頼んで一緒に登下校をする近所の義理友だけが唯一の頼り。その子とも、何を話したらいいか分からなかったので、ひたすら黙々と一緒に歩くだけ…という、相手にとっても苦行の時間だったと思います。
学校は、それ自体がザワザワとしてとても疲れる場所でしたし、他の子たち…特に活発な男の子の動きは予測不能で不安だったし、何かというと「グループ」や「2人組」などにならないといけない体育などもとても負担で、給食も白ご飯の量が多くて食べきれず、完食するまで居残りになってしまったり、、、とにかく全てが辛かった。
その上、山の上にある小学校は遠くて、ランドセルも重くて、体力のない私は行くだけでも朝から疲れきっていました。
だから、長男の「学校の全てが怖い」という気持ちもとても良く分かるのです。
よくよく思い出せば、イヤなことばかりではなかったと思うけれど。。。
子どもの頃、私はお母さんが大好きでした。
でも、自営業で母は年中無休で働き続けていて、繊細で自閉的な父には心の病があり、いつも自分の世界に閉じこもっていたので、親と関わる時間というのは本当に少なくて、家族でどこかに出かけたりした思い出は片手で数える程しかなく、公園すら殆ど家族では行きませんでした。
そんな母となんとかして一緒にいるために、私は家業を毎日手伝っていました。
内気な私は、母にとっては心配事の多い子どもでしたが、勉強ができることが母の唯一の自慢だったので、塾と習い事も自ら希望してピアノ、習字、そろばん、アルファベット、、、放課後に週五日。
学校に行くだけでも疲れていたのに、更にお手伝いと習い事づくめの日々でした。
たぶん、ASDの傾向があったと思われる当時の私は「死ぬほど真面目」という言葉がピッタリで、「◯◯しなければならない」という自分ルールのようなものも沢山あって、がんじがらめになって、ほんとに真面目で窒息死しそうになってました。…それなのに、ただ”真面目だから”"成績がいいから”というだけで、ロクに話せないのに学級委員などにもよく選ばれていました。
そして、風邪で数日休んだのをきっかけに、ある時突然学校に行けなくなってしまいました。
頑張り過ぎたんですね。
今で言う「うつ状態」だったのだと思います。
小3の少女でしたが、バッタリと動けなくなって、燃え尽きてしまった。身体が重く、無気力状態になってしまった…そんな感じでした。
当時は不登校を「登校拒否」と言い、珍しいことでした。
学校では大問題になり、私が休んでいる間にクラスでも話し合いなどがあったようでした。
でも、母は私に何も言いませんでした。
仕事が忙しい罪悪感などもあったのかもしれませんが、布団で一日中テレビを見ている私に「学校に行きなさい」とは言わなかったんですね。それが本当に救いでした。
私は、一日中母が忙しく動き回っている様子を垣間見ることができたので、家にいることはとても幸せでした。時々仕事の合間に様子を見に来ては「食べたいものはあるか」など聞いてくれたり、、、そんな些細なことが本当に嬉しかったっけ。
学校を休んで二週間くらい経ったころ、母は私に
「ごめんね。お母さんが悪かったよ」
と、謝りました。
私はちっとも母が悪いとは思ってなかったけれど、その言葉をきっかけに少しずつ回復に向かっていきました。習い事はピアノ以外全てやめました。お手伝いは無理のない範囲で続けました。
だんだんと身体が動かせるようになり、担任の先生も家に何度も訪問して様子を見に来てくれ、クラスの子たちも心配して電話や手紙をくれました(先生はクラスの子達に「美鈴ちゃんは心の病でお休みしています」と説明したようです。私を励ますための作文集までもらってしまいました)。 (※登校刺激についての追記)
家でゴロゴロしているうちに疲れがとれてきて、私は「そろそろ、学校行ってもいいかも」という気持ちになって来ましたが、気恥ずかしさもあってなかなかきっかけが掴めずに、一ヶ月が過ぎました。
すると、今まで一度も向こうから「一緒にいこう」なんて言ったことがなくて、いつも私との登下校を迷惑そうにしていた、あの近所の義理友が、朝、向こうから迎えに来てくれ「美鈴ちゃ〜ん、行こう〜」と朝玄関で呼んでいるのです(多分、親か先生にお願いされたのだと思いますが…)。
私は飛び起きて、慌ててランドセルを背負い、学校に行きました。
彼女はその日だけ、手をつないでくれました。
久しぶりに学校に行くと、真っ先に活発な男子が声をかけてきて「ココロの病、なおったか?」って、ちょっと照れくさそうに聞いてきてくれました。
その日より、私は学級委員を解任され、お花係の専門職に転職できました。笑
活発な女子グループが休み時間に誘ってくれて、運動の苦手な私にゴム飛びや縄跳び、鉄棒など、丁寧に教えて、仲間に入れてくれました。
休み時間にお絵かきをしているとクラスの子たちが、話しかけてきたり、そばで一緒に絵を描き始めたりしてくれました。
結構周りに気を遣われていたと思うけれど、不登校を機に、私の弱さや欠点が晒されて、親しみも感じてもらえたようにも思います。
そうして、「いい子」「優等生」の役割からも開放された私は、次第に他の子達ともいろいろなお話ができるようになりました。
その後、高学年で母がファミコンを買ってくれ、私はゲーム少女になり、熱心にドラクエの研究をしてノートにまとめていたので、それをきっかけに男子たちとも楽しく話せるようになりました。
そして、ゲームやマンガの好きな女の子の友だち数人ができ、放課後、自転車で毎日のように遊びにいきました(や◯いマンガを描く友人や、キャプテン翼の妄想を語る夢女子を見守るために…)。
ようやく、私にも(義理ではない)友だちができたんですね。
母は私がゲームばかりしていても、何も言いませんでした。
私は、自分のことは自分で決めるようになりました。
こんなことがあったので、もし、うちの子がある日急に学校に行けなくなってしまったとしても、なんとなく大丈夫だと思っているんです。
(でも毎日子どもが家にいるというのは、親になってみると本当に結構大変だと思うので、やっぱり「行きなさい」って言ってしまうと思うし、ゲームばかりしていると、いつも何か言いたくなってしまうのですが、、、)
私の話は平和で素朴で子どもの多い時代のことなので、今はもっともっとシビアな現実に直面しなくてはならないかもしれませんが……
毎年、夏休み明けの二学期は、いじめや自殺など、若い命が失われるニュースを目にします。
今年はどうか、そんなことがありませんように。
【2023.8追記】登校刺激について
不登校のお子さんが、クラスメイトから手紙をもらったり、家に迎えに来たり…といった「登校刺激」は、負担に思われるお子さんもいらっしゃると思います。
ただ、記事にもあるように、当時は不登校はかなり珍しいことで、学校にも先生にも親にも「不登校対応の予備知識」のようなものはなく、全て手探り状態だったこと、一応付記しておきます。
現在の学校教育の環境で登校刺激が有効かどうか、そもそも不登校の子に登校を促す必要あるのか…などへの私個人の意見は「その子の気持ちと学校側の状況、及び、登校刺激の方法と相手との関係性による」と思っています(環境によっては適応できないほうが健全な場合もあるでしょう)。
つまりは、ケースバイケースです。
我が子に対しては、学校教育は(特に社会面で)、子どもの成長にとって一定の役割があると思うので「行けるようなら、行ったほうがいい」と私は思いますが、今の学校が、その子の成長にとって大きくマイナスになる環境なのであれば、刺激などせずに、まずは学校から離れて、よく休ませてあげてほしいなと思っています。
Comments