【考察】「鬼滅の刃」炭治郎と冨岡義勇さんに学ぶ、役割期待と“自分らしさ”の引き受け方
- 楽々かあさん(大場美鈴)🇯🇵
- 9月1日
- 読了時間: 11分
更新日:9月8日
劇場版「鬼滅の刃」無限城編 第一章、私も子どもと公開初週に観ましたよ、iMAXシアターで!
感覚過敏のある子と一緒に行ったので、奮発してプレミアムシート予約したら、超混雑の劇場でもストレスゼロで、全てが最高でした(ドリンクとポップコーンは蜿蜿長蛇の列で買えませんでしたが💦)

■「鬼滅の刃」の精緻なキャラ設定から学べること
このまま劇場版の素晴らしいところを、ひとつ一つ詳細にネチネチと解説したいところではありますが、それだと完全な私の趣味ブログになってしまうので、断腸の思いで「楽々かあさん」らしく、子どもの発達や環境との関係性の文脈で、作中での役割期待の影響について、考えてみたいと思います。
⚠️本記事は、アニメ&原作「柱稽古編」までの内容と、映画『無限城編 第一章』に軽く触れる程度の範囲にとどめています。原作の結末や映画の核心部分のネタバレはありませんので、安心してお読みください。
以前も「10代のための凸凹学」のブログ連載【第10回】で、役割期待について鬼滅の例にさらりと触れましたが、「鬼滅の刃」は、役割期待を考える上でも、非常にわかりやすい作品だと思います。
原作のキャラ設定が精緻に練り込まれていて、それぞれのキャラがくっきりと立って、キャラクターデザイン、セリフ回しなどの細部に至るまで、しっかり描き分けられているからこそ、でしょうね。
なので、鬼側も含めて、どのキャラも自分に課された役割に対して、少なからず、何かしらの行動原理や葛藤を抱えていると思いますが、特に顕著に「役割期待」の影響の大きさがわかりやすいのが、今回の映画で大活躍だった、主人公の炭治郎と、水柱の冨岡義勇さんだと思います。 (恋柱の甘露寺蜜璃ちゃんも、ジェンダー論的な役割期待を語る上で象徴的な存在ではありますが、あんまり熱く語ると、うっかり「おばみつ推しの私」が口を滑らせてしまうので割愛します😅) まず、「役割期待」という耳慣れない言葉について簡単にーーー。
【役割期待とは?】
社会学や心理学で言う「役割期待(role expectation)」は、集団内で他者がその人に「果たしてほしい」と無意識・意識的に思っている行動や態度のことです(「空気」と言い換えることもできそう)。 そして私は、これが思春期から青年期にかけての「自己同一性(アイデンティティ)の確立」や、環境への適応に深く関わっていると推察しています。
さらに、役割期待は「レッテル貼り」と紙一重でもあるので、発達障害などのマイノリティの人の生きづらさを考える上でも、大事な視点だと思っています。
■【考察】「鬼滅の刃」炭治郎と冨岡義勇さんに学ぶ、役割期待と“自分らしさ”の引き受け方
で、炭治郎と冨岡さん。
この二人は「役割期待」という視点から見ると、実に対照的なキャラ設定なのです。
「長男」という家族からの役割への期待に応え、「長男らしく」成長していった炭治郎。
一方で、「柱」という役割が重荷となり、自分は「柱にふさわしくない」と引け目を感じて、周りに馴染めずにいた冨岡さん。
でも、どちらがいいとか悪いとかではなく、ここでは、周囲からの役割期待が、それぞれのキャラ設定(人格形成や行動原理)に、どう影響していったのか……を、読み解きたいと思います。 まず、周囲からその人に何かしらの役割が期待されている時、そこには「〇〇らしく」「〇〇は、こうあるべき」という理想像のようなものがあったり、「〇〇ならば、こうするのが当然、できて当たり前」という、その人の行動の前提条件となったりの、強いイメージがあると思います。
この理想像は、裏返せば、先入観であり、思い込みです。
【役割期待の例〜親は親らしく?】
例えば、「〇〇」に「親」を当てはめると……「親は親らしく」「親はこうあるべき」「親ならば、こうするのが当たり前」という世間の見方などが、親という役割への期待であり、それは一般的な理想像なのかもしれないけど、同時に強いプレッシャーや偏見を感じる人も少なくないでしょう。
でも、「例外もあるのだろう?」だし、がんばっても親らしくできない人もいるし、一般的な理想の親のイメージ通りじゃなくても子育てを十分うまくやれている人もいますよね。
つまり、周りの期待どおり振る舞うことが、必ずしも「正解」や「最適解」ではないのです。「親」に関して言えば、一般的な理想の親像よりも、「その子にとってどうか」のほうが大事ですしね。
……とはいえ、自分に期待された役割を果たすことで、周りから受け入れられ、そこに居場所ができるので、その環境に「適応」しやすくはなるのです。
ですから、期待された役割が果たせないと、その環境での居場所がなくて、居心地が悪くて「ここに居てはいけないのではないか」「生きづらい」と感じる人もいるでしょう。
……ということは、期待通りにする・しないは別にしても、その環境で「自分に期待されている役割」を把握できれば、環境への適応の主導権を自分自身に取り戻すことができると私は思います(※環境に適応することが必ずしも「いいこと」とは限りませんから)。
#「長男だから我慢できた」炭治郎の精神的な強さ
さて。そういう視点から観た時の、主人公・炭治郎の生き方。
「長男だから我慢できたけど、次男だったら我慢できなかった」という有名なセリフに象徴されるように、彼はしばしば自分への勇気づけ・励ましの言葉で、自分を鼓舞します。
これは、第一話で家族を失う前の、父親のいない家庭で家計を支え、母を助けて5人の弟妹を世話しながら、慎ましくも平和に暮らしていた頃から、自然と炭治郎が担ってきた「長男」の役割で培った強い精神力です。炭治郎にとって、「長男=忍耐強く我慢するもの」というイメージがあるのでしょう。
また、「逃げるな!責任から逃げるな」などのセリフからも、炭治郎の強い責任感が見て取れますが、この「責任」とは、炭治郎にとって「長男の責任」「役割への責任」であるように思えます。
この時代は、長男が家督を全て相続するなど優遇された反面、それに伴う家族への責任もずっと重かったことでしょうから、まだ少年の炭治郎からそんな言葉が出るのは、同じ年頃でも毎日お気楽に生きてるうちの子ども達を見ると、私はある種の悲壮感さえ感じてしまいますが……。
それでも、自分に課された役割を、逃げずに正面から引き受けて、実際に我慢強く責任感の強い「長男らしい」キャラになっていったのが炭治郎です。
ただ、炭治郎は、周囲からの期待にただ縛られていたのではなく、「自分が大切にしたいこと」と「長男としての役割期待」とを重ね合わせ、自分自身の本当の力に変えていったところが真の強さではないでしょうか。これには彼の素直さや慈悲深い優しさ、真面目さなどの生来の性格や、温かな家庭や厳しくも豊かな自然などの環境も影響しているように思います。
この「役割期待」と「自分の価値観」との一致は、とても大きな強みです。なぜなら、期待に応えることが「やらされてる感」ではなく、「自分の選んだ生き方」になっているからです。
もちろん、炭治郎だって時々弱音を吐し、たまに目上の人に年下の子として扱われるとホロっと来たりもしますが、いつも「自分は長男である」というプライドが彼自身を支えてきたように思います。
これは、子どもの発達や思春期のアイデンティティ形成を考えるうえでも示唆的なんですね。
子どもが「親や先生から〇〇を期待されているからやる」のではなく、「自分が大切にしたいからやる」と思えたときに、役割期待はプレッシャーではなく、エネルギー源になるのだと感じます。
つまり「本人も自分の意思でそうしている」なら、問題なく、強くなれる理由になるのです。
#「俺は水柱じゃない」冨岡義勇のプレッシャーと変化
一方で、水柱・冨岡義勇さん。
彼は「柱」という鬼殺隊最高位の剣士でありながら、ずっと「自分は水柱になっていい人間じゃない」と感じていました。その背景には、過去に姉や友人を犠牲に自分だけが生き残ってしまったという負い目や、周囲との関わりがうまく築けなかった孤立感があります。
つまり、義勇さんにとって「柱」という役割は、誇りよりもむしろ重荷になってしまっていました。
周囲から期待される「強く、頼れる水柱」や、「柱=人々や下の隊士達を守るもの」という自分の中のイメージと、「守られて生き延びた、本当の弱い自分」との間に大きなギャップがあり、その役割期待を引き受けることができずに苦しんでいました。
義勇さんにとっての理想の水柱は、自分を守って死んでしまった友人・錆兎であり、水柱を受け継げる可能性を感じた強い精神力のある炭治郎だったのでしょうね。
また、「お前達とは違う」「俺には関係ない」などと、他の柱達とは一線を引くような態度をとって、自ら孤立を招いていたようにもみえますが、言葉が足りないだけで、その実「自分にはその資格がない」という意味での、自罰的なものだったようですね。
鬼殺隊隊士になるための最終選別の試験に、気絶してる間に通ってしまった体験を引きずっていた義勇さんにとっては、柱も「正当な資格が必要」という強いイメージがあって、枷になっていたのかも。
役割期待が、炭治郎の「力」「支え」になる場合と、義勇さんの「プレッシャー」「生きづらさ」になる場合の対比がとても対照的です(おそらく、最初から意図したキャラ設定と、両者の関係性の構図だと思います。脱帽!)。
炭治郎は「長男」という役割を自分の信念と重ねて力に変えましたが、義勇さんは「柱」という役割と自分をどうしても重ね合わせられず、そこから孤立してしまったのですね。
でも、柱稽古の前に炭治郎とのやりとりで友人・錆兎の言葉を思い出し、柱としての覚悟を決めます。
そして、今回の劇場版のメインとなった炭治郎と共闘した猗窩座戦では、炭治郎を守りながら流麗な剣技や持ち前のタフさで大活躍しました。
目の前のことを無心に、ただ一生懸命やっているだけで、克服できることもあるのだと思います。
そして、義勇さんは「役割を完璧に果たせるかどうか」が問題なのではなく、「誰かのために自分に今できることをする」というシンプルな行動の中で、自分なりに「柱であること」を再解釈できるようになっていったのではないでしょうか。
つまり、「柱」に対する意味づけを、自分が許容できるものに変化させていったのだと思います。
この変化は、周りからの役割期待に押しつぶされそうな子どもや大人が、関係性の中で自分なりに新しい意味を見出すことの大切さを示していると思います(これも適応の一つでしょう)。
例えば、周りから「頼れる部長」という役割を期待されているけど、その実「自分には向いてない、荷が重い」と思っている子がいたとして……
「頼りないけど、周りの人に上手に頼れる部長」ならできそうとか、「行きたい大学の推薦に有利だから」と割り切るとか、自分なりの「部長」の意味の再解釈をして受け止め方を変えることで、引き受けられる場合もあるでしょう。
つまり、役割期待に応えられるかどうかではなく、その人が「その役割をどう引き受けていくか」「そこにどんな意味を見いだすか」が、適応や自己理解にとって大事なのですね(もちろん、自分が望まない役割からは「降りる」っていう選択肢もあります)。
■自分なりの役割の引き受け方が、 自分らしい生き方に……
炭治郎のように、期待された役割を自分の価値観と重ねて力に変える人もいれば、義勇さんのように、重荷として感じてしまう人もいると思います。
でも、どちらが「いいお手本」「悪いお手本」ではありませんし、周囲がその人に期待する役割自体も妥当なもの・必要なものもあれば、過剰なものや不当なものもあるでしょう。
実際には、多くの人がそのあいだを揺れ動きながら、自分なりの役割の引き受け方を模索しているのだと思います(私も「楽々かあさんらしい」振る舞いと、現実の自分の実像に、お腹痛くなったり、励まされたり、「それもまた良い〜」と妥協したりの日々です😅)。
特に、思春期の子には自己同一性の確立という意味でも、この模索は大切な過程だと思います。
この時期の子に、親や先生など周囲の大人ができることは、「〇〇らしく」という理想像を期待しすぎるよりも、炭治郎のように役割をうまく自分の力に変えられるよう温かく見守ったり、もし、義勇さんのように重荷になっているなら、逃げ道や休息場所を与えたり、柔軟な考え方の提案をしたりすることではないでしょうか。
炭治郎と義勇さんを比較すると、役割期待は「居場所をつくるカギ」にもなれば、「孤立の原因」にもなり得ることが、よくわかります。
でも、最終的に炭治郎は「炭治郎らしさ」、義勇さんは「義勇さんらしさ」に行き着いたように、どんな役割が期待されたとしても、「その子らしさ」を大事にできるようにすればいいのだと思います。
そして、その人が、社会の中でどんな役割を引き受けていくかは、「どう生きるか」と同じことだと私は思うので、「生殺与奪の権」だけでなく、「生き方の主導権」も、他人に握らせなくていいのです。
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