不登校の思い出

8.19.2014

夏休みも後半戦。お元気にされていますか?
・・・私はヘトヘト、うちはグダグダです。笑

 

先日の登校日、長男は前の日から「行きたくない」と言い続け、当日は出発時刻、「学校の全てが怖い」と言って泣き出し、玄関に座り込んでしまいました。

結局遅れて保健室登校。行けただけでもほめましたが、少々新学期が心配です。

 

一年生の頃に比べると、学校も大分慣れ、多くはないけれど友だちも出来、毎朝泣いたり渋ったり、という状態は改善していて、三年生の一学期はサボリ休みはありませんでした。

学習面でうまくいかないことが大きいけれど、それ以外はそこそこ適応できている、という印象で、先生や周りのお子さん達も割と温かく見守ってくれている感じがしています。

 

でも、夏休みの間、大好きなゲームはやり放題だし、私もできるだけ好きにさせているので、、、やっぱり学校との落差が激しいですよね。休みの間に、友だちや給食といった、本人が楽しみにしている学校のイメージはすっかり消えてしまって、授業についていけないこと、注意や叱責、遠い登下校、苦手な体操や運動会、など、不安に思っているネガティブなイメージが膨らんでしまっているように思います。残りの休みは、近所のお友達と遊んだり、負担にならない程度に学校の(楽しい面の)話題を出したりして、良いイメージが戻るように心がけたいと思っています。

 

さて、タイトルの「不登校の思い出」。

実は、私一ヶ月程度ですが、不登校の経験があります。それも長男と同じ小学三年生の頃。

 

私は真面目でおとなしく、引っ込み思案で、内向的な少女でした。

感覚が敏感で疲れ易く、小3くらいまでは、学校では授業中の発言以外は殆ど話さず、場面かんもくと呼ばれる状態だったと思います。お絵かきが好きで、いつも絵を描いていました。

当時は「発達障害」や「自閉症」など、自分も周囲も理解できていてなかったけれど、軽度・グレーゾーンの範疇にあったのだと思います。

 

友だちと呼べる子はいなくて、友だちの作り方すら分からず、親がセッティングした登下校を共にする子だけが唯一の頼り。その子とも、何を話したらいいか分からなかったので、ひたすら黙々と登下校だけする、という、相手にとっても苦行の時間だったと思います。

 

学校はそれ自体がザワザワとしてとても疲れる場所でしたし、他の子たち、特に活発な男の子の動きは予測不能で不安だったし、何かというと「グループ」や「2人組」などにならないといけない体育などもとても負担で、給食も食べきれず居残りになってしまったり、、、とにかく辛かった。山の上にある小学校は遠くて、体力のない私は行くだけで疲れきっていました。

 

だから、長男の「学校の全てが怖い」という気持ちもとても良く分かるのです。

よくよく思い出せば、イヤなことばかりではなかったと思うけれど。。。

 

私はお母さんが大好きでした。

でも、自営業で母は年中無休で働き続けていて、父は自閉的で自分の世界に閉じこもっていたので、親と関わる時間というのは本当に少なくて、家族でどこかに出かけたりした思い出は片手で数える程しかありません。公園すら殆ど行きませんでした。

 

そんな母となんとかして一緒にいるために、私は家業を毎日手伝いました。

母にとっては心配事の多い私でしたが、勉強ができることが母の唯一の自慢だったので、塾と習い事も自ら希望してピアノ、習字、そろばん、アルファベット、、、週五日行きました。

学校に行くだけでも疲れていたのに、更にお手伝いと習い事づくめの日々でした。

私は「死ぬほど真面目」という言葉がピッタリで、ほんとに真面目で死にそうになってました。真面目というだけで学級委員などにも選ばれていました。

「◯◯しなければならない」という自分ルールのようなものも沢山あって、がんじがらめになっていました。

 

そして、風邪で数日休んだのをきっかけに、ある時突然学校に行けなくなってしまいました。

頑張り過ぎたんですね。今で言う、「うつ状態」だったのだと思います。

小3の少女ですが、バッタリと動けなくなってしまった、燃え尽きてしまった、身体が重く、無気力状態になってしまった、そんな感じでした。

 

当時は不登校を「登校拒否」と言い、珍しいことでした。

学校では大問題になり、クラスでも話し合いなどがあったようでした。

でも、母は私に何も言いませんでした。

 

仕事が忙しい罪悪感などもあったのかもしれませんが、布団で一日中テレビを見ている私に「学校に行きなさい」とは言わなかったんですね。それが本当に救いでした。

私は、一日中母が忙しく動き回っている様子を見ることができたので、家にいることはとても幸せでした。時々仕事の合間に様子を見に来てくれ、食べたいものはあるか、など聞いてくれたり、、、そんな些細なことが本当に嬉しかった。

 

学校を休んで、二週間くらい経ったころ、母は私に

 

「ごめんね。お母さんが悪かったよ」

 

と、謝りました。

私はちっとも母が悪いとは思ってなかったけれど、その言葉をきっかけに少しずつ回復に向かっていきました。習い事はピアノ以外全てやめました。お手伝いは無理のない範囲で続けました。

だんだんと身体が動かせるようになり、担任の先生も家に何度も訪問して様子を見に来てくれ、クラスの子たちも心配して電話や手紙をくれました。

私は「そろそろ、学校行ってもいいかな」という気持ちになって来ましたが、気恥ずかしさもあってなかなかきっかけが掴めずに、一ヶ月が過ぎました。

 

すると、今まで一度も向こうから一緒にいこうなんて言ったことがなくて、いつも私との登下校を迷惑そうにしていた、あの近所の友だちが、朝、向こうから迎えに来てくれ「◯◯ちゃ〜ん、行こう〜」と朝玄関で呼んでいるのです。私は飛び起きて、慌ててランドセルを背負って、学校に行きました。彼女はその日だけ、手をつないでくれました。

 

久しぶりに学校に行くと、真っ先に、いつもいたずら好きで危ないことばかりしている、動きの読めない活発な男の子が声をかけてきて「こころのやまい、なおったか?」って、ちょっと照れくさそうに聞いてきてくれました。私は軽く頷いて、照れくさそうに笑ったのを覚えています。

 

その日から、私は「真面目」というだけで選ばれていた学級委員という総合職から無事解放され、お花係などの専門職に転職できました。笑

気を使ってくれているのか、活発な女の子達のグループが休み時間に誘ってくれて、運動の苦手な私にゴム飛びや縄跳び、鉄棒など、丁寧に教えて、仲間に入れてくれました。

私がお絵かきをしていると、それまでは近くで見ているだけだった子たちが、話しかけたり、そばで一緒に絵を描き始めたりしてくれました。

私は次第に、他の子といろいろなお話ができるようになりました。

 

その後、高学年には母がファミコンを買ってくれ、私はゲーム少女になり、とても熱心にドラクエのダンジョン攻略やアイテム、モンスターの研究などをして、ノートにMapを作ったりしてまとめていたので、それをきっかけに話せなかった男の子たちとも楽しく話せるようになり、同じようにゲームやマンガの好きな女の子の友だちグループができ、放課後、学校の反対側のおうちまで、自転車で毎日のように遊びにいきました。

 

ようやく、私にも友だちができたんですね。

母は私がゲームばかりしていても、何も言いませんでした。

私は、自分のことは自分で決めるようになりました。

 

こんなことがあったので、もし、うちの子がある日急に学校に行けなくなってしまったとしても、なんとなく大丈夫だと思っているんです。

(でも毎日子どもが家にいるというのは、親になってみると本当に結構大変だと思うので、やっぱり「行きなさい」って言ってしまうと思うし、ゲームばかりしていると、なかなか見過ごせずに、いつも何か言いたくなってしまうのですが、、、^-^;)

 

私の話は平和で素朴で子どもの多い時代のことなので、今はもっともっとシビアな現実に直面しなくてはならないかもしれませんが、、、登校日にしぶっていた長男にはこんなことを話しました。

 

「学校は勉強や他の人との話し方の練習をするところで、全く勉強しなかったり、人と話さなかったりすると、大人になった時にすごく損をしたり、騙されたり、お仕事ができなくて困ったりするから、母ちゃんは学校には行って欲しいと思うよ。

 

でもね、もし、◯太郎が『学校に行くくらいなら死にたい』って思うくらいなら、行かないでいい。◯太郎の命より大事なものはないよ。死んでしまったら、大人になった時にできること全部を捨てないといけないし、母ちゃんも死ぬくらい悲しい気持ちになるからね。

 

でも、もし、諦めないで勉強していたら、お金持ちになれたり、沢山の人の役にたったり、友だちや仲間がいっぱいできたり、楽しいこともいっぱいあるかもしれないね。

 

母ちゃんは、◯太郎が今も、大人になってからも、楽しいことがいっぱいあるといいなと思ってるよ」

 

 

毎年、夏休み明けの二学期は、いじめや自殺など、若い命が失われるニュースを目にします。

今年はどうか、そんなことがありませんように。

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2015.4.11追記。

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